チャウシェスク銃殺その後 —ルーマニアはどこへ—/鈴木四郎

1980年代後半から1990年代初頭にかけて、東欧諸国では民主化の動きが活発化していた。そのなかで、チャウシェスク大統領銃殺という衝撃的な流血革命が起きたのがルーマニアだった。

スターリンの再来と指摘され、さらに、毛沢東が取った文化大革命の哲学と思想に深い影響を受けていたといわれるチャウシェスク大統領だったが、そんな彼の失策は大いに国民の不評を買った。

例えば、不充分な公害対策、一党独裁が転じた国家権力の乱用、収支の合わない巨大な国家事業、さらに、チャウシェスク宮殿なるものの着工等々、国民のチャウシェスク政権に対する怨嗟は次第に高まっていった。が、貧困政治の原因は大統領にのみならず、むしろ夫人のエレナ氏にあったといってよさそうだ。事実上、政治の実権を握っていたエレナ夫人だったが、彼女の取った政策がまた、経済に大きな損害をもたらした。「現代の世界三悪女の一人に数えられる」(本文より)というから、その悪人ぶりは常人には想像し難い程だったのだろう。

チャウシェスク派の治安部隊と、市民・学生・労働者等で組織されたデモ隊(革命派)が数日間に渡り銃撃戦を繰り広げ、多くの犠牲者を出しながらもついに革命が成し遂げられた。当時、現場に居合わせた日本人の証言を読むと、その銃撃戦の様子はさながら映画の1シーンのようだ。

革命後、複数政党制の樹立や市場経済の導入を目指し新政府がスタートしたが、いずれも充分に機能しなかった。

読了: 2003年2月