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胡蝶の夢(一〜四) 司馬遼太郎 新潮文庫


活躍の舞台は幕末の長崎。蘭方医学の発展に尽くした松本良順を描いた小説。

良順の実父は蘭方医・佐藤泰然。佐倉順天堂の開祖でもある。その泰然が、良順を養子に出したのだが、養父・松本良甫の家業は漢方医学を旨とする官医。しかし、その官医の中で最も権力を有する多紀楽真院が蘭方医学に理解を示さなかった。ここで良順は漢方医学を猛烈に学ぶのだが、要は底意地の悪いいじめに耐えていたのだ。多紀楽真院に押し付けられた無理難題にも応えた。そのくせ、普段は飼い殺しの状態に近く、仕事らしい仕事がない。

蘭学を知りながらもそれを発揮する場所が無いばかりか、表に出すことすら憚られる環境だ。読んでいるこちらの魂が閉じ込められそうな気分になる。様々な苛立ちが複雑に胸中を交錯し、時折大きなため息をつかずには読んでいられなかった。良順は、その環境で発狂寸前になるまで耐えた。

その良順にも、転機が訪れる。

長崎海軍伝習所の御用医となったのだ。オランダ海軍軍医のポンペの生きた蘭語に触れながら西洋医学を学ぶ多忙な日々が始まった。この生活がどれほど良順の精神を救ったことだろう。考えただけで涙が出そうだ。そんな良順を、語学の面でサポートし続けた人物がいた。語学の天才であろう島倉伊之助(後の司馬凌海)だ。

しかしこの伊之助、良順の弟子としてのみその天才的な語学力を発揮していたようで、普段はその場に居るだけで周囲の気分を害してしまうちょっとした問題児でもあった。どこへ行ってもつまはじきにされるのだ。先天的に何かが欠落していたのだろうか。しかし、程度の差こそあれ、あるいは本質的に異なったものであれ、伊之助の言動には自分自身の奥底にもある何か似たものを感ぜずにはいられない。

良順や伊之助が学んだ蘭方医学はしかし、精密に組み立てられた江戸時代の複雑な身分制度を根底から否定する要素を持っていた。患者を平等に扱うという事だけでも一大事だ。その思想が危険視されたであろうことは想像に難くない。語学を学べば別の思想が身につくものだ。事実、当時の蘭学家には世襲や身分制に淡白な人たちが多かった。前述した佐藤泰然にしてもそうだ。当時の最高水準を誇っていた佐倉順天堂の後継者を良順としなかったという事実からも、泰然の思想の断片が伺えよう。学問も実践も、命懸けだったのだ。

読了: 2006年11月

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