婆娑羅太平記/黒須紀一郎

悪党でも、武家でもなく、婆娑羅でもない。本書の主人公は妙適清浄を標榜する真言立川流の僧・文観だ。邪教とされていた姓の宗教だが、男女交合の恍惚感が菩薩への道、という宗旨の根底には貴賎貧富の差を真っ向から否定する平等思想があった。

世にはこびる差別を崩壊させる事が大衆を救う道。そう信じていた文観はやがて武器商人・石念や悪党・楠木一族と出会う。被支配層の独立繁栄を願う彼らと文観の思想は底通し、お互いが協力体制を築いた。作品の後半、彼らが関東の幕府軍を手玉に取った千早赤阪村での活躍が見られる。僅かな軍勢で大軍を破る様子は、この時代の出来事の一つの華であるかのようだ。

しかしこの文観、庶民の味方ばかりしていたわけではない。尊治親王(後の後醍醐天皇)に重用されたのだ。元の皇帝・フビライのような強力な支配者となる事を望んだ尊治は、元の国教に通じる立川流の験力を望んだのだ。文観は、自らの理想と矛盾する立場にも加担してしまったのだ。

文観の思想はまた、婆娑羅として知られていた佐々木道誉の心をも動かした。芸に秀でた道誉に対し、芸とは大衆と共にあるものという明確な意識を持たせた。文観は、反支配体制の最大勢力を得たと言えよう。作品タイトルを象徴しているのか、道誉の登場回数は多い。美意識を貫くことに強烈な意地を見せたり、戦場で活躍したりと単なる派手好きな伊達男ともなりかねない面が強調されがちだ。しかし、文観の主義主張の盲点をあっさりと突いてくるあたりに諸事に対する道誉の深い造詣が見られる。

本書のタイトルに「太平記」とある以上、軍記物語としての読みどころも多い。注目したいは楠木正成、赤松円心らの悪党の活躍や、新田義貞、北畠顕家、そして足利尊氏の躍進だ。尊氏には躁鬱の持病があったようで、躁の状態に見せる神憑り的な戦略や戦場での指揮は家臣から絶対の信頼を寄せられていた。しかし一方で、鬱の状態に陥ったときの尊氏の不甲斐無さが鮮やかな対照となり、その変化に右往左往する家臣たちが時折滑稽でさえ感じられる。また、尊氏の側近・高師直が意外な程の婆娑羅振りを見せているのが本書の特徴の一つとなっている。

一見バラバラな物語だが、個性溢れる登場人物たちの様々な志と文観の信仰する宗教思想が少しずつ重なることで統一性が生まれ、点を線で結びながら読み進めて行ける作品だ。

読了: 2008年9月