北条氏の権力が衰え始めた鎌倉時代の後半、反幕分子の一つに悪党の存在があった。その悪党たちの間で最も良く知られているのが河内の悪党、楠木正成であろう。
武装はするが武士とは戦わない。むしろ荘園内での小規模な戦闘が多かった。正成は自らの軍を調練し、商いで財を成すことで楠木一党を成長させ、次第に勢力を拡大していった。
やがて近隣の悪党勢力と共に朝廷勢力として幕府に反旗を翻した。
武士に取って代わる政権を確立させなければ世の中は変わらない。正成自身が権力を欲していた様子は感じられないが、悪党の勢力でもって武家社会を崩壊させることが、正成がおぼろげながら描いていた悪党としての生き様だった。
しかし、鎌倉幕府を倒したのは正成等の悪党ではなく、当時最大の反幕勢力を率いていた足利尊氏だった。京に上った尊氏は持明院統の光厳天皇を担ぎ、北朝を建てた。当時、南朝の大覚寺統(後醍醐天皇)と持明院統は皇統を争って対立していたため、天下に二つの朝廷が存在することになった。
いわゆる南北朝時代の幕開と言ってよいだろう。
数々の戦闘で功績を残し、肩書きが増えていった正成だったが、それに固執しようとする様子は感じられない。あくまで一悪党として生き抜くことを覚悟しているが故だろうか。政権に加わる機会も与えられた節も見うけられるが、戦場で散々と尊氏を苦しめた後に河内に戻り、まるで何かの気を紛らわすかのように寺を建立し続けた。
読了: 2003年2月
写真は千代田区皇居外苑に立像する楠木正成像