日蓮/山岡荘八

人の世の悲しさを知り、また神仏に対する疑問を抱いた善日丸(後の日蓮)だったが、やがて発心。人が救われる道を切に求め清澄山に入山。

入山後、様々な煩悩に苦しみながらも自らに厳しく鞭打ち、経文を完璧に近い形で読破した。そんな日蓮が見た当時の日本仏教は様々な宗派に分かれていたが、いずれも日蓮が求め、また真実と認めたものは存在しなかった。後の日蓮曰く、分派は日本仏教の歪みであり、そこに釈尊の真意は存在しない。

やがて日蓮は持論を説いて周った。比叡山の大講堂や清澄山の諸仏堂、さらには時の最高権力者の執権邸など。法華経こそが真実とし、他宗派を軽快に、時には重厚に否定した。各宗各派を論破する日蓮の姿には命懸けの強い信念が感じられたが、一部の例外を除きほとんどの人々には理解されなかったようだ。彼の論調が攻撃的であったことや、掲げる理想が庶民にとっては非現実的であった事などが原因として挙げられよう。救済への情熱が空回りしてしまっているようで気の毒に思えるのだが、聞くべき耳をもってすれば決して迫害される内容のものではない。

本来は一つであるはずの仏の心だが、多数の宗派が存在しては世の混乱の元となる。それを救うための日蓮の働きが描かれた小説だ。しかし、日蓮が建てた一派はさらに混乱を招いたのではなかろうか。これは終始私が抱いた疑問であり、また本書に登場する浄顕の言葉にも表れている。それでもなお、各宗各派を束ねるだけの知力を身に付けようと熱い信念で自らを磨き続ける姿こそが、本書における日蓮の見るべきところであったと言えよう。

読了:2005年3月

日蓮上人像

写真 写真は鎌倉市長勝寺の日蓮上人像。

安国論寺

写真 同じく安国論寺。「立正安国論」がこの地で書かれた。

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