著者は先ず、空海の思想を語る難しさを説いている。それを語るには著作を理解するだけでは不可能だからだ。そもそも、著作の内容を理解するだけでも普通の人々には無理であろう。それでもなお、難解なものに挑もうとする著者の姿勢、またそこから紡ぎ出されるであろう著者の空海観が冒頭から読者を引き付けるのだ。
空海の評価は明治以前、明治以後で2分される。呪術を行う密教が偉大な力の対象として崇められてきたが、近代化にともなう科学思想が従来の評価を覆した。時を経て、再び空海が見直されたがブーム化された風潮に著者は距離を置く。
再び空海の著作を手に取った著者が発見した空海像はこうだ。
人間として掴み難い。例えば、法然や親鸞のような人間が持つ煩悩は一般人にも共感をもたらす。しかし、空海からはそれが感じられない。遠い存在なのだ。
一方で、宗教家としての空海は略歴的な描かれ方がされているのである程度分かる。留学時代や帰国後の空海が与えた影響、または密教思想の特徴などだが、私は著者が述べる空海の教義について充分な理解は出来ない。分かりやすい表現で記されているにもかかわらずだ。しかし、理解をし切れずとも、著者の作品世界に居る事に微かな興奮がある事もまた否めない事実だった。
読了: 2007年3月