漆黒の霧の中で 彫師伊之助捕物覚え/藤沢周平

「だが伊之助は凄腕の岡っ引と呼ばれた男である。胸の中に昔の勘が動いていた。」本文より。

江戸時代を舞台に繰り広げられる捕物小説だ。川岸に上がった水死体の素性調査を始めた主人公・伊之助。しかし、調査が進むに連れ第2、第3の事件が起り伊之助の身も危険に晒されて行った。探偵物にありがちなパターンだが、そこには江戸時代に生きる町人たちの細やかな人間模様も描かれており、典型的な時代小説の良例だ。

探偵、適度のアクション、市井の様子など、本書ではテレビで良く見かける時代劇の要素が充分に味わえた。中でも会話の巧さが特に印象的だった。そして主人公、伊之助の人間像はどうか。忘れたい過去を引きずりながら味気無い生活を送る版木彫り職人、というのが普段の伊之助の顔だ。感情移入とまでは至らないまでも、そんな主人公の人物像からは同じ人間としての安心感を胸の何処かに抱かせる。それはスター性を持つ主人公が登場する小説からは得られない感情だ。

この「彫師伊之助捕物覚え」はシリーズで刊行されており、本書はその第2作。他、第1作の「消えた女」、第3作の「ささやく河」があり、それぞれ作品の雰囲気は異なるが、前述した特徴が共通して見られる。まず、「消えた女」の冒頭、最初の2ページに見られる伊之助の無気力さ加減がたまらなく良い。一瞬にして作品世界に引きずり込まれてしまったのだ。事情があっての心の闇。ストイックに心を閉ざす一面を見せながらも、人情に動かされ損得抜きで骨を折ってしまう一面も見せる。この一見矛盾しているかのように思われるものが一人の人間の中に共存しているからこそ、主人公に惹きつけられるのだ。

このシリーズにユーモアが加わったものが「用心棒日月抄」シリーズだろうか。主人公は訳あって許婚の父を斬り脱藩。江戸での用心棒稼業を続けながら起こる数々の事件。主人公に仕事を紹介する「相模屋」や同業者の細谷の存在がユーモラスだ。この作品の後には「孤剣」、「刺客」、「凶刃」と続く。

   

ちなみに、武家ものを描いた著者の作品で「密謀」という本がある。戦国時代末期の上杉家参謀・直江兼続や彼に仕える忍の集団が物語の中核を成している作品だ。作品テーマの1つとして忍の集団に目を付けたあたりは興味深いが、戦国小説としての迫力はいまひとつだった。著者の作品を読むなら市井ものの方が楽しめそうだ。

中でも、「蝉しぐれ」は絶品。ひとりの少年藩士が剣、友情、人情、淡い恋、そして挫折などを通して豊かな自然の中で成長していく様を描いたものだ。それらの要素はすべて、十代の頃の私が嫌っていたものだが、今読んでみると爽快感と懐かしさが込み上げてきた。この「懐かしさ」というのは、恐らく、日本人が持つ本能的なものなのかも知れない。

読了:2003年 10月