峠/司馬遼太郎

越後長岡の一藩士から郡奉行、町奉行、やがては家老、総督に立身し、幕末の藩政改革に尽くした河井継之助が主人公。

冒頭から継之助の苛烈な性格が伺える。
江戸遊学を藩に願い出るくだりも、わざわざ大雪の中で江戸に出発するくだりも、自分がこれと信じた事に関しては行動せずには居られないような人物だ。事なかれ主義に慣れきった周囲からすればちょっとした厄介者であろうことが感じ取れる。その苛烈さは、彼の血肉となっている陽明学が影響しているらしい。よほど強烈なものを内に秘めていたのであろう。

とにかく念願が適い、江戸では古賀塾に入塾した。
しかしそこでは技術としての学問が幅を利かせており、彼が理想とした実学とは違うものを目指している者たちがほとんどだった。彼にとっては、実際の行動が伴うようでなければ学問としての意味がなかったのであろう。そんな調子だから、塾でも勉強をしないし、周囲にも手厳しい。さらには公然と吉原通いを続ける。

江戸遊学を藩に願い出る時の理由も、「吉原で女郎買をする」と言っただけあって、作品中は遊郭での描写に結構なページ数が割かれている。しかし継之助からは色事以外のものを求めているような気配が感じられるためか、あまり艶っぽさはない。

ただ遊んでいるだけのような継之助だが、一方で時勢に敏感であり、先見性も持っていた。幕藩体制への批判精神もあったが、倒幕に向かって突き進む薩長とは立場が違う事も認識していた。継之助はあくまで、長岡藩士として、さらに突き詰めれば武士として、この難局をどう乗り切るかを念頭に置いていた。

そんな折、横浜では福地源一郎やスイスの商人・ファブルブランドと出会い、自身の見識を高めていった。これが彼にとっての学問だったのだろう。この二人からは特に海外に関する知識を吸収していたようだった。余談だが、この福地の天才ぶりには継之助以上にまず読者が目を見張る。

江戸での学問に失望した継之助は今度は諸国漫遊だ。

優れた内政者との噂を聞いては備中松山藩の山田方谷に会い、また長崎へも足を向けた。再度備中の山田に師事し、ようやく長岡に帰藩。しばらく平穏な日々を送るが、後に藩政に加わり郡奉行と町奉行を兼任する。

継之助が目指したのは一独立国としての長岡藩だった。

薩長にも付かず、幕府軍にも付かず、中立の立場でもって両者を取り持つことで長岡藩を生き残らせたかった。そのために、博打や妾、さらには自らの生活の一部と化していた遊郭をも廃止し、藩金を蓄え、藩に洋式銃を広め、軍の編成も洋式に変えるなどして軍備の拡張に努めた。政治的発言力を持つには武力を背景にする必要があったからだ。

彼ほどの人物であれば、脱藩したほうが大事を成せたような気がしなくもないが、譜代の立場であり続けながら旧来の社会秩序を廃止するような改革を進めていく難しい作業をしている。作品中、継之助がよく言う「立場」が彼には重要だったのだ。

万事が尖っている継之助だけに、藩政改革に着手するや敵も作った。藩論の統一に腐心している様子を読むと、読者のほうが疲れてしまいそうだ。が、ほとんどの問題を彼の気迫で押し切った。周囲が気押されてしまうのだ。孤軍奮闘しているような印象だが、藩主の牧野忠恭・忠訓から信頼を得ていた事が大きかったし、幼馴染の小山良運との交流も継之助を助けていたように思われる。継之助を理解し、話し相手になるような人物など周囲にはあまり居なかっただろうから。

時勢の成り行きと彼の政治方針が相まった結果、物語は最終局面の北越戦争へと展開していくが、その凄惨さがいかにも継之助自身の生き様が表れていたような気がして、世のため人のためにと彼が命がけで習得・実践した学問とは一体なんだったのだろうかと、主人公と一緒に問うてみた。

読了:2010年10月