利休にたずねよ/山本兼一

茶道とはかくも奥深いものか。利休の執拗なまでの美への追求は単にお茶の味のみにあらず、茶室内の空間、茶碗の趣、さらには料理にいたる。これらは、わざとらしく工夫を凝らして相手に気付かれるようではあざとくて駄目なのだ。嫌味が無く、あくまで自然に茶を楽しむ空間作りをしなければならない。利休の繊細な審美眼のみが、その空間作りを可能にする。

例えば柄杓ひとつをとっても、茶室に飾る花一輪をとっても、利休はその道具の形状をミリ単で観察し、その選定に命を削っているかのようだ。その情熱の根源は作品を読み進めていく過程で徐々に明らかにされるのでここで詳細には触れないが、一言で言えば若い頃の衝撃的な恋に起因している。

そんな利休が作り上げた美の世界は誰もが認めるところだが、少しずつ秀吉との軋轢を生むようになっていった。天下人となり、望むものすべてを手に入れたかに思える秀吉だったが、茶道の美だけは容易に我が物とはならず。その美の世界を泰然と生きる利休が秀吉には小癪だった。利休も、天下に名の知れたひとかどの茶人だ。美に関しては秀吉に微塵も媚びたりはしない。秀吉も秀吉なら利休も利休。心底に見え隠れする驕りは両者から感じるところだ。本書の章にある「北野大茶会」のくだりでは、派手でおおらかな武家の茶も、侘びさびを旨とする利休の茶もなく、ただただ参加者全員が茶を楽しむ様子が華やかで読者も心地良かったのだが、やはり人間は変わっていく。

大徳寺山門の利休の木像が不敬であるとか、茶道具にもっともらしい由縁を与えて法外な値段で売ることが云々とか、秀吉からのそんな言いがかりが両者の確執をいよいよ表面化していった。秀吉は利休に切腹を命じたが、そもそもが本気ではなく、利休からの助命嘆願を期待したものだったらしい。しかし、秀吉を心のどこかで軽蔑していた利休にはそれが出来なかった。

話が若干それるが、天下人相手に我を通して様になるのは「花の慶次」ぐらいのものではないか?(ただ単に直接対峙するシーンがあったからかもしれないが)。なぜか利休には、フリだけでもいいから頭を下げて命乞いをして欲しいと思ってしまった。本書で見られる利休の「我」は、時に読者でさえ癪に障ったからだ。ここまで書いてしまった以上、そう思うのは「読者の驕り」であろうとご指摘を受けそうだが。

と、作品全編を通して茶道の魅力が十分に堪能できる一方で、秀吉と利休との関係に溝が深くなっていく様子を見ていると自分の嫌なところを見せつけられているようで目を背けたくなる。秀吉の利休に対する勘気も、利休の秀吉に対する意地も心のどこかで共感できるからだ。

読了: 2010年11月