会津白虎隊/星亮一

鳥羽・伏見、戊辰戦争において薩長軍と矛を交えた会津藩。その会津藩の中でも最も若い年齢(16~17歳)で構成された戦闘部隊、白虎隊を描いた小説。

治安の乱れた京都を統治すべく派遣された会津藩。一時は薩摩藩と同盟し、京都を占拠する長州藩を追い出すが、薩長同盟成立後は一転して朝敵の立場に追いやられてしまった。幼帝を奪い、擁立させることで大儀名文を得ようとした薩長軍の謀略だった。

会津藩は仙台藩などと奥羽越列藩同盟を結び、また兵器の近代化に努め薩長に対抗するが、早くから欧米と交わり兵器の近代化に成功していた薩長との差は歴然としていた。大鳥圭介率いる陸軍や榎本武揚率いる海軍が援軍を送るが、戦局を変えるには至らなかった。白虎隊は、各地で連敗を重ねる会津藩に加勢せんと出陣を待ち望んだ。
が、白虎隊が初陣を飾った頃には既に戦局が悪化しきっていた。さらに、ようやくの初陣も見せ場らしい見せ場をつくれぬまま敗走することになってしまった。降りしきる雨の中で一晩を過ごし、洞門を抜けて飯盛山に辿りついた時の彼らは疲労困憊しきっていた。結成時には300名を越していた隊員たちだったが、飯盛山まで逃げ切ったのはわずかに20名。疲労しきった彼らがみた鶴ヶ城には既に火の手が上がっていた。少なくとも、彼らにはそう見えた。それが悲劇の始まりだった。
城は、実際には全焼に至っていなかったのだ。しかし、城が落ちたと勘違いした彼らは集団自刃を決行した。潔く死ぬことを選んだのだ。実に19名の若い命が果てたが、ひとり、飯沼貞吉が蘇生した。白虎隊の悲劇は彼によって周囲に知れ渡ることとなったようだ。

また、本書には現存する多くの史跡が登場する。物語の間には、「史跡探訪」と題し、各地の歴史とアクセスがきめ細かに記されている。

余談ながら、飯盛山には自害で果てた19名の墓があり、現在でも彼らの墓に線香を供えにくる訪問者が絶えないようだ。私が訪れた時もそうだった。ちなみに、自刃後にひとり蘇生した飯沼貞吉は、その後仙台に移り、維新後の通信事業に多大な功績をもたらしたようだ。

読了: 2002年12月

会津城下

写真 写真は隊員たちが自刃した地から眺める会津城下の方角。

会津若松城

写真 おまけ:桜が満開の鶴ヶ城

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