身分の低い家柄に生まれた主人公・小三郎の立身出世を描いた小説だが、決して痛快なサクセスストーリーではない。目の前の困難に淡々と、そして真摯に向き合うが、身分社会で成り上がる事の難しさが痛切に伝わってくる作品でもある。
身分差により受けた幼い頃の屈辱。
以来、学問を高め、武芸を磨く事が彼の自尊心を保つ手段となった。それでも、実力以上に彼に立ちはだかる身分制。自らが伸びようとすればするほど周囲の風当たりは強くなる。
閉塞的な社会制度の壁を乗り越える事で小三郎は人間足り得たが、一方で対照的な登場人物も登場する。
生まれながらに全てが備わった男。三代続いた家老の家に生まれた滝沢兵部だ。 小三郎が内に秘める反骨精神の対象としては象徴的な存在だ。
得てして、読者の感情としては小三郎に寄りがちだが、兵部が背負った苦しさにも目を向けてみたい。 次代の城代家老となるべく周囲の期待を背負った兵部には自分の意思で生きられる自由がなった。生活の全てを親に支配されていたのだ。彼もまた、1人の人間として生きることを渇望していたであろう。
やがて家を飛び出した兵部は身を持ち崩すが、落ちるところまで落ちてしまった生活の中で初めて人間としての自我に目覚める。落ちぶれたが、それもまた彼の自由によって手に入れた生活なのだ。
小三郎と兵部、お互い正反対の人生を歩んでいるようだが、自分の坂を上っていく事は両者にとっては実に厳しい精神作業が要求された事だろう。
劇的な展開はないが、読後の充実感に浸れる作品だ。
読了: 2007年09月